メッセージについて

 三十分近く聞いた駅前の小煩い街頭演説について、彼女は心底呆れた表情で、「あれじゃ誰にも届かないよ」と僕に言った。「ごめん」も「待った?」もなくて、「こんにちは」の挨拶も、もちろん、いつものように無かったのだった。

 

 彼女はキノコの傘をちぎってきたような丸っこいフォルムの巨大な白帽子をかぶっていた。僕はキノコには詳しくないが、あれが雑木林に生えていたら、そいつはまず間違いなく毒キノコだろう。デカくて白くて目立つのに誰も食べないのは有害だからに決まっている。

 

憲法改正反対!」

 

「与党の横暴を許すな!」

 

「国民の意思を反映した政治を!」

 

 まったく、デカい声を拡声器でさらにデカくして、あれではまるで公害じゃないか。毒なら流すなと言えるけれども、表現の自由だの、思想信条の自由だのと、連中にはかなりいろいろな種類の盾がある。警官だろうが何だろうが迂闊に黙れとも言えないし、駅前で怒鳴りたてるような人種は僕からすると水銀よりもたちが悪い。

 

 というような話を僕は彼女に聞かせてみたが、彼女は僕の意見について、指先でちょろっと撫でるような感じで一瞬だけ触れてみて、即座に「不可」のスタンプをぺたんと押した。

 

「じゃああの人たちが声のボリュームを下げたとしたら、あなたはあの人たちの話を真剣に聞く?」

 

 彼女はおっぱいがデカいくせに馬鹿ではなかった。おそらく眼鏡のおかげである。

 

「聞かない」と僕は言った。「じゃあ、声の大きさが問題じゃないでしょう。あの人たちがあなたからすると興味の湧かないことについて何か言ってる。その時点で、貴方はすでに“うるさい”と感じているの」と彼女が言って、僕は「そーだね……。そうかもしれない」と彼女に返した。僕らの会話は、だいたいいつもこんな感じだ。

 

 毒キノコの帽子のなかで、僕には想像のつかないような小宇宙が、ビックバンを起こしたり銀河同士でぶつかったり宇宙人同士で交信したりしている様子が目に浮かぶ。

 

 というような話を彼女に聞かせた。想像のつかないような小宇宙を想像した僕はすげーやつだそうだ。「フフン♪」と僕は笑ったが、三秒くらいして、「あ、馬鹿にされているんだな」と気が付いた。得意げに笑った分だけ馬鹿の度合いが増した気がする。

 

 僕はサッカー部の部員である。

 

 いちおう、上手い。

 

 中学、高校と、部活ではきっちりレギュラーになっているし、大学もスポーツ推薦の話を向こうから持ち掛けてきたくらいである。

 

 彼女と居ると、僕は時々、「私は球蹴りおバカです」というプラカードを持たされているような気分になる。ただ持たされているわけではない。なるべく元気にわっしょいわっしょいと天高く持ち上げなくてはいけないのだ。

 

 彼女は、僕に向かって、三島由紀夫がね、という話をした。頭のいいやつは馬鹿にも分かるように話してくれる。

 

 誰でも知っているほどの知名度を文学という最も知的な世界から獲得した三島由紀夫という人物の残した最後の言葉を、貴方は多分知らないでしょう。

 

 真剣にこの国を想い、真剣に考え、行動にも移して、懸命に叫んで、比喩としてではなく、実際に命を懸けて伝えようとして、その結果が、貴方。

 

 それが、言葉の力。

 

「だから、あの人たちのしていることは無駄だってわかるの。だってあの人たち、間違いなく三島由紀夫より考えていることの程度が低いし、みんなから無視されても死にはしないし」

 

 僕は三島由紀夫という人が作家であることは知っているけれども作品を読んだことは一度もない。

 

 彼がどんな作風で、どんなふうに物事を捉え、それをどうやって人々に伝えていたのかを僕は知らない。

 

 でも、まあ、どこかでチラッと聞いたことはある。

 

 彼は右翼で、愛国主義者で、何かの拍子にこのままだと日本はダメになってしまうと確信して、そいつをみんなに伝えようとしたのである。

 

 その結果がこのざまだ。

 

 僕は、三島由紀夫のメッセージを、ちっとも知らずに生きている。誰も伝えようとは思わなかったのだろう。大事なことだと思わなかったのだろう。一生懸命やったのに、考えが通じないのは淋しかったに違いない。

 

「ねえ、右手上げて」と彼女が言った。

 

 僕は小さく右手を挙げた。

 

「何かしてほしかったらみんなに向かって言うんじゃダメよ。『貴方』に頼むの。『貴方』が何もしないなら私は死にますって言うのなら、動けない人は居ないわね」

 

 そう言って彼女は、てくてくとひとりで歩きはじめた。運命が彼女の邪魔なんてできるわけがないとでも言っているのか、横断歩道の信号が素晴らしいタイミングで青に変わる。

 

 僕はぽつんと一人で突っ立っていた。たっぷり一分近く待っていた。

 

 彼女がまたてくてくと、横断歩道を渡ってくる。

 

「ねえ、写真撮っていい?」

 

 僕がそう言うと、彼女は僕の肩を強く押した。彼女は方向音痴で放っておくとすぐに迷子になるのである。リンゴが重力に引かれて落ちるように、彼女は目的地の反対側へと引っ張られる。彼女の行き先にはアーケードがあって、カラオケの箱や居酒屋のテーブル席があって、ちょっと向きを変えるとホテル街がある。連れて行ってくれるなら行きたいけれども、僕は映画が見たいのだ。